のらりくらり

いつだって漂っていたい

わたくしを安易に肯定するんじゃない

できしなの記事が2つ、カズレさんこ記事が1つ、執筆途中だけど放置して6月初の記事をば。
6月は忙しい。なぜなら祝日がないから。そして、目立ったイベントがないから。息つく間がないのだ。

そんな今月の目標は読書。5冊は読みたいけれど、全て中途半端だ。今、カフカ「変身」読みつつ、パウロコエーリョ「アルケミスト」読みたいなぁと思いつつ、源氏物語関連書籍を読んでる。バラバラにもほどがある。あたし、そんなに脳の処理能力高くないんだよ……いやまじでな、わたし賢くないんだよなぁ。それは、ある意味で強みだとも思っているのだが、賢くないと自覚していること。努力を続けなければいけない理由になるから。まじで過度の自意識って不要。山月記しんどい。
先日の泥酔事件を起こした飲み屋に再び参戦した、その時も気にしないようにしたけど自意識が邪魔をした。いや、邪魔をして正しいしもう少し気をつかうべきだったんだろうが。顔を覚えていないことにはそれができないんだよ…中途半端になるのだよ……畜生。

携帯電話、についてなにかしら文章を書くとしたらどんなものを書く?という問いかけに対する答えは「携帯電話がもたらした学力低下について」とかかなぁ。もしくは「携帯電話普及によって、記憶力が低下したのではないだろうか」というところか。
常々思っているのだけれども、携帯電話が普及したことで簡単に何でも調べることができるようになった。その弊害として、「記憶を外付け」するようになったのではないかと思っている。ちょうど、膨大なイメージや記録を残すために普及したハードディスクのように。人々、ことに若者は「覚える」という行為に対して、極めて受動的になっていると感じるのだ。かつては「暗誦」することで歴史を紡ぎ、後の世に繋いできた。はたまた、出世の一つの指針として「暗記能力の高さ」というものがあった。中国の科挙なんてその典型なんじゃなかろうか。1万を超える文字を暗誦することが義務付けられていたその理由は「歩く辞書」の育成だったのではないかと考えている。→この辺の背景をしっかり根拠を持って提示する
物資にもエネルギーにも学問にも恵まれ、飽和状態にある今の世の中は、情報を精査する力が必要とされている。だからこそ、型にはめられた上で携帯電話によって得るべき情報をあえて放棄している人間もいる。結局、その慢性的贅沢症候群な体勢が、ものに限らず見えない資源にも及んできているのだ。
試験の合格率や基準と年代などなどを調べて、結論に結びつける。

こんな感じかな。色々とちゃんとした文章を書きたい気持ちはあるのだがなぁ。