のらりくらり

いつだって漂っていたい

夏の夜半は短くあるがやはりしづかで身が持たぬ


久しぶりに都々逸読もうとおもって勢いのままに詠んだけれど…なんの風情も情緒もない作になってしまったよ。
「春はあけぼの」が頭にぱっと浮かんだから、夏をテーマにしようとおもったの。
かつ、今は夜だから時間設定を「夜半」にして、言葉遊びありきだから掛詞までは思いつかなかったので、語感の似ている「やはり」を入れてみたけれど、頓珍漢になってしまった。頓珍漢ってこんな漢字書くんだ…

『夜は短し歩けよ乙女/森見登美彦』という小説がある。タイトルは明らかに「いのち短し恋せよ少女」という言葉のパロディなのだろうが、わたしはこの元の言葉がとても好きだ。
決してこの言葉は人間にとっての命の短さを歌っている訳ではなくて、「乙女」という有限であり切り取られてしまう時間のことを謳っている。そして同時に「恋」という一過性の病気や魔法にも似た、人々が憧れて止まない偶像の行く末に対する警告でもあるんだと思う。
つまり、「恋」というものはいつまでもできるものではない、と。
まだ無知で自己の確立さえも不確かな、様々な境界線上をフラフラ歩いている乙女だからこそ、恋ができるんだよ、と。
だから今の内にたくさん恋をしておきなさいよ、躊躇うことなどないのよ、だってこの先恋などできなくなっていくのだから。
そういった絶望を味わった大人の女からの、警告であり願いなのだとおもう。
高校生のおなごたちに送る言葉を一つ挙げるとすると、この言葉を挙げるだろう。同意ではないけれど近い意図として、男性諸君には「少年よ、大志を抱け」を送りたい。

なーんて考えていたら、「いのち短し恋せよ少女」には実は続きがあることが本日発覚しました。わーー

「いのち短し 恋せよ少女 あかき唇 あせぬ間に」

…やはり乙女という時間が有限であるという意図なのでした。明確になったことで、嬉しいような悲しいような。


しかしこれ、歌詞の一部らしいんだけど、意図的に都々逸の音にしてるよね?
元々は教養を表す道具であり高貴な遊びであった和歌だけれども、現代の「歌」が生まれた経緯って和歌に音をつけたところなのかなー、なんて疑ってみる。
どちらが先なんだろう。
音楽が生まれて、韻律のある詩に対してそれらを載せてみよう、とおもったのか。はたまたその逆か。

あれー、地獄のオルフェウスか王家に捧ぐ歌について語ろうと思って出て来たのに、言語論みたいなところに終始してるおかしいなー。
また近々出てきます…