のらりくらり

いつだって漂っていたい

ひとつずつ、億劫になるいろいろにリボンをかけてそれらしくする

バレンタインという魔物がやってきました。
ひとに喜んでもらうことがすきだけれども、それは「好きな人」であることが前提であって、バレンタイン当日にとくにすきな人に会う予定のないわたしにとって、今年のこのイベントはまるで関係のない日になってしまったのでした。
ひとまず、今日は某生徒さんのお茶会に参戦したから、日頃お世話になってる方にはちょっとしたお菓子を渡した。でも、手作りでお菓子をつくる、というほどではない。
それだけ、このイベントに対する意識が低下している。
会社に所属していた時も、上司たちにチョコレートを渡すことになんのいみが?と思ってできる限り安上がりで済ませようと試みていたことを思い出す。義理は義理らしくあるべきだ!(とまっとうに聞こえる言い訳をするのであります)
当時の恋人さんにはそれなりに努力をしていた、ような、気はするけど、忘れたな…?逆に居候されつつあったときに、ハート型ガトーショコラ作ってくれたのはちょう嬉しかった。あの頃は人生において幸せだったと思える時期のひとつ。閉じられた日々だったけれど。

「閉じられた日々」を求める日はもう来ないかもしれないな。永遠、という言葉に固執しなくなったように。すべてをさらけ出せる相手が欲しい、とおもわなくなったように。

「バレンタインは日曜日だから、用意する時間がないの、でも手作りで作らなきゃいけないから、」などと面倒臭そうなそぶりでうれしそうに話していたあの子が直前になって破局して、いまどんなおもいで過ごしているのかなどと雨の音を聞きながら、おもう。
そうやって恋人とイベントごとを過ごすことで、恋人がいる自分というものに価値をおいていたあの子。愛されるかわいい自分でありたかった、あの子。その価値を失わないために執着して、かわいくみせるために奔放に振舞って、許されるとおもってだらしのないところを見せていた、あの子。
早かれ遅かれこうなることはわかっていたのに、歯切れの悪い返事ばかりして、それをやさしさだと勘違いして、結果的に大きく傷をつけた愚かな男。

しあわせは他人から肯定されるものなんかじゃない。人それぞれだ。自分がしあわせだと思えば、それでいい。しかし、しあわせを分かち合う相手がいるのなら、見失わないようにしながら手を取り合って、しあわせであるべきた。けれどもそこに他者は必要ない。おもいはあくまで、自分で判断しなきゃ。

あ、だめだねむい、とっちらかってるけどねます、、、