のらりくらり

いつだって漂っていたい

あの日捨てたはずの思い出は今なおこの手の中に

 
 
 
このツイートをしたときに昔書きかけて下書きに入ったままにしていたものを思い出したので、引っ張り出してみた。
 
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ルームシェアをするために関西は大阪に引っ越したのだが、ルームシェアが終わった今、おもうことを。
 
結果的にあたしたちのルームシェアは悲しい結末になってしまった。途中まではすごく楽しかった、あたしだけだったのかもしれないけれど、あたしはしあわせだった。
仕事帰りにみんなで買い出しに行って道に缶酎ハイで乾杯したこと、すごく、鮮明に覚えてる。しあわせだったなぁ。仕事終わったあとに三人でご飯食べにいくとか、家で流し素麺してみたりとかたこ焼きしてみたりとか、ドラマいっしょに見たりとか、友達招いてパーティしたりとか、いっしょにお風呂入ったりとか寝たりとか、そういう友達以上家族未満っぽいこと、すごくたのしかった。
血の繋がらない他人同士でも家族になりえるんだねぇ、というようなことをuちゃんが言って家内安全のお守りを買っていて、それがすごく嬉しかったの覚えてる。
 
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会社の先輩にある日お子さんが生まれた。その先輩と奥さんは正直なところ、うまくいっていなかった。あたしはその先輩がひととしてすごく好きだったからいつも心配していた。けれど、ふたりの血のつながりがあるお子さんが生まれたことによって、家族を成り立たせなければいけないという制約ができ、絆というか、繋がりができた。他人じゃなく、家族になってゆく様を間近で感じた。それでも家族として自然な形が成り立つまでには努力が必要で、それは共に過ごす時間をつくるということなんじゃないかしら、とぼんやりおもっている。
仕事が忙しくなれば生活がすれ違ってしまう可能性が高くなるし、ストレスが溜まっていたり気持ちに余裕がなくなってしまったら、お互いを尊重し合ったり気遣い合ったりする気持ちがすり減ってしまう。
我が家もまさにそんなかんじだった。
三人がいて初めてバランス良く成り立っていた部分が確かにあった。だから三人で共に過ごす時間、というものが減っていくにつれてバランスが悪くなっていった、起点はそこだった、とあたしは思っている。
家族になりえるかも、と思っていたけれどそれぞれの家族像だって違う、血の繋がりもなく共有すべき明確な何かがあった訳でもないあたしたちが家族、なんてそう簡単になりえなかった。
そう思う一方で、あたしはそのことについて後悔している部分がある。せっかくの貴重なルームシェア期間だったのに、もっとたのしめたのに、恋人と家とのバランスがうまくとれなかった。失ってしまった今だからわかるし思えるたくさんのこと。
 
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やっぱり三人で笑いあっていたときが一番楽しかった。クリスマスにプレゼント隠して宝探ししてもらったり、uちゃんが入居するからってレアチーズケーキをkと二人で作って、結果的に入居が延びてふたりでぶつくさいいながら食べたり。愛のある時間はあたたかかったし、しあわせだったし、たのしかった。
他にもたのしかった思い出はある、だからさみしい。uちゃんが耐えきれずに出て行ってしまったことも、kとあたしの関係もギクシャクしてしまったことも、愛が欠けた空間になってしまった家も、かなしい。さみしい。
最後の方、家はただの空間に過ぎなかった。無言の空間。一番最初のワクワク感があんなことになろうなんてなぁ。
 
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どわっふ!全力で感傷的になってしまった…そうなのよね。この話、元同居人たちとはうまくできないから、どうしても感傷的になってしまう。それぞれ見ている目線が違うから。感じてることも考えてることも違うから、きっとこの思いは共有できなくて、余計にかなしくなってしまう、そのことがなんとなくわかっているから、ひとりでジメジメきのこ生やすしかない。
まぁでもいい経験だった。思いやりや感謝の心、忘れるべからず。なにかしらおかしいとおもったら、なるべく早い段階で理解に努めなきゃいけない。乱暴な解決方法は混乱しか産まない。
あの経験があるから、あたしは今苦もなく15人強のシェアハウスで楽しく暮らせてる部分があるとおもってる。
人と人はどうあがいても他人なんだからね、考え方ややり方が違うってことはあることなんだよなぁ。自分のことも、他人のことも、親しき仲でも関係性を過信してはいけない。
 
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そういったこと、ほんとうに考えないでなんでもできるのが、家族なのかもしれない。