のらりくらり

いつだって漂っていたい

それらしい言葉の槍に貫かれ

タイトルだけ残して息絶えたのは、昨晩のわたし。何について書こうとしていたのか、カテゴリが「たわごと」なのでどうでもよくどうしようもないことなのだろうけれど。
「それらしい言葉」は曖昧で受取手次第だから、過大評価されることを期待してつい使いがち。けれども賢い人が聞けば一発で見抜かれてしまうものでもある。「それらしく」言っているだけで中身は空洞であること。

あ、昨日見た雨上がりさんたちの「Aさんの話」でお水の話をしていたせいだ。ミネラルウォーターは大して健康効果がある訳ではなく、実は水道水の方が良い、という話。水道水はただ汲み上げた水を流している訳ではなく、ミネラルウォーター以上に厳しい水質検査(検査項目は1.5倍くらいあったし、基準も厳しかった)を受けて供給されているから、おいしく身体によいはずである。もし不味く感じるのであればそれは配管が汚れているからである、との話題。
最後には橋本マナミさん出演の、見事なカラクリVTRまでぶっ込んできてた。人間は騙されやすい生き物であることを実感できるVTR。わたしはあの手法とても好きだった〜。社会の縮図だよ。

***

GWは喉風邪に支配されて終わりました。うまく付き合えなかったからこじらせて、未だに声がうまく出ません。つらい。
華大さんとの二度目の謁見も無事終え、岡崎(キュン!)の友人宅で猫にイチコロズキュゥン、鎌倉で旧友とのんべんだらり、横須賀でわたしの相棒&甥っ子たち(ちがう)とはしゃいで、やっべー仕事に全然手ェつけてねぇよデレシシなう。順調に痩せつつあったのに、簡単に戻った。むしろ飛び越えた。道理で醜い身体してんなーとおもってたんだよ……

**
GWの記録。

京都→岡崎(在来線)
友人宅にて宿泊。最近飼い始めたぬこさんの可愛さたるや……ここの夫婦は本当にわたし理想に近いものがある。結婚しても攻め続ける姿勢というか、お互いに好きなことを妥協しない姿勢。それがわがままではなく、思いやりが根底にあるあたりが、理想。

岡崎→(在来線)→小田原(こだま)→鎌倉
こだまって素晴らしいのな……各駅停車ですけど、移動時間も楽しみたいわたしにとってはうってつけ。在来線と違って席に簡易机もあるし。安いし。これからは積極的に利用していきたい所存。
鎌倉、少し前の古き良き雰囲気の残る街並みでした。寺院も多くて楽しいけど、予想以上に人が多くて困惑。みんな、なにを目的に来ているのだろう。評判を聞きつけて響きだけで来ていたのか。GWとはそういうものなのか。
●行ったところリスト●
報国寺、銭洗い神社、由比ヶ浜
江ノ島水族館、江ノ島神社に向かったものの人の大群でこころがおれました。

鎌倉→横須賀
ひっさしぶりに宝塚、否むしろもはや人生の相棒と言って差し支えのないであろう友人宅に泊まり込み。1年以上ぶりに会った甥っ子と言って差し支え(ry)がわんぱく坊やになっててソーキュートだつた〜!肩によじ登ってこられても全く苦じゃない〜〜!
真剣に子供が見たいと言われた。ぜったいかわいいから、と。相棒にそんなこと言われたら動揺する。

GW当初、喉の痛みに襲われて体調崩したけど回復。しかしその代償に声を持って行かれやした。もしかしてわたし、人魚姫だったのかなぁ……(撲殺)

周りの友人が結婚しない!といいつつも身を固めた人が増えてきて、気付けば会う時に子供がいることが当たり前になってきて、と同時に焦る人も増えてきて、三十路という言葉を改めて実感してる。一つの指針であり路なのだ、と。けど三十路を目処にするのは、響きもあるけど何より子供のことで、そういうことを望む人たちは焦るのだろうけど、一周回って強くは考えていないわたしにとってはどうでもよくなってしまっている。たぶん、望んでいる人たちはとても辛い時期にさしかかってきてる。今までわがままを言えていたのに言えなくなっていく。過去にすがりつくひともいるだろう。
わたし、自分の育った家庭を恨んじゃいないしむしろ普通に幸せで感謝もしてるけど、なんで普通だったんだろうと思うことはある。帰省するたびに祖母や母親から結婚についてチクチク言われても、ダメージを受けなくなりつつある。この人たちはそういう役割だから、と切り離して考えてしまう。たぶんそれは、わたしが望んでないからで、焦ってもいないから。同時に、今のわたしの状況をわかってほしいとも思わなくなったからだ。
これから先、「普通」をやんわりと拒絶し続ける限りわたしは異質なものとして見続けられるだろう。今はまだどうにかなる、と思われていても次第に扱いづらい存在になっていくだろう。わたしは理由もあるし、それでいいと思っているけども、肉親はそうはいかない。ある意味でそれは「恥」だからだ。

自分が何かを成せなくなるにつれ、存在価値を他者にも止めるようになるのかもしれない。それは赤の他人では意味がなくて、血の繋がりがなければ意味がない。その顕著な例が、子供なのだろう。
子供が結婚したら、そのエピソードを楽しそうに誇りに語りだし、子供が結婚していなければ、恥ずかしそうに話す。自身を褒められることがなくなっていくにつれ、その対象は子供や孫になっていく。
小さければ小さいほど、簡単に褒められるから都合が良いということもあろう。

身内の集まりがある度に、心が冷えていく。今、わたしに好きな人がいないし、結婚願望がないからうがったようにしか見れないのかとしれない。けれども、自らのエゴのために子供を生んでいる人はいるはずだ。本人は認めないかもしれないし、認めたくないかもしれないけれど、間違いない事実だ。
その姿勢を批判はしない。だって、そういう人がいるから世界は成り立つし、結果的に幸せも生まれるし、それを見た人たちの二次的感情も生まれるからだ。十二分に生産的な仕事だからだ。
けれどもわたしは、自分が働くという手段で生産的な活動をし続けたい。持て余されず、切に人手が必要なところを回り続けて生き続けたい。効率よく、有意義に生き続けたい。
それも一種のエゴだけど。
しかも年を重ねるにつれて、難しくなっていくんだよなぁ。今でさえ記憶力の低下や、言葉が出ないことを感じるので、怖いにもほどがある。

※2016/5/4のはなし