のらりくらり

いつだって漂っていたい

眠れない夜にはホットミルク一滴のはちみつ添えてどうぞこちらへ

家に牛乳を常備してないんだよなァ。

牛乳、いつのまにか買うなら低脂肪ではなく無調整になってた。実家が低脂肪だったからそれを買わねばならぬ、それでないと健康を害する、などと思っていた。そもそも実家には低脂肪牛乳が常備されているから、それは冷蔵庫の扉の右側にいなければならないものだと思い込んでいた、そういう小さな常識だと思い込んでいた認識を少しずつ溶かしていく、それが自立するということなのかもしれない。

と、ふと思った。ふと思えたのは、ミルクティの話を出したから。

やはり書くということは、考えるということ。書かないと思考力も低下していくのではなかろうか。

 

日本は世界的に見ると経済的には豊かではあるが、心の豊かさはその豊かさには比例していないと感じる人が多いのではなかろうか。そう言われていた気もするし、なんとなくそうなんだろうなぁとも感じる。わたしは生活に不自由はしないが収入だけ考えると貧困寄りではあるのだろう。経済的には豊かとは言いがたいが不幸せではない、かと言って幸せかと問われるとうん、まぁ、それなりに、という宙ぶらりんなかんじ。

で、とある人が「日本人が幸せを感じにくいのは幸せの感じ方が絶対的ではなく相対的であるからだ」といったんです。

それに対して「あー確かになー」と思ったのだが、その根拠がようやく言語化できそうだったので早朝から執筆活動をし始めたわけです。

 

日本人は他者と自分を比較することで、自分の存在価値を感じることが多いのではなかろうか。一方、他国特に欧米諸国では「自分は自分、他人は他人」というスタンスで、自分自身で自分の存在価値を決めることができているように感じる。日本人は自己肯定力が低く、欧米諸国では高い。そういうイメージもある。

だからこそ、承認欲求が満たされやすいTwitterInstagramが流行ったのだろう。

 

(それらは日本に限らず世界的に大きな流行を見せているが、国によって使い方の違いはあるのかもしれない。調べてないからわかんないけど、ツールとしての認識の違いはありそう。もしくは、それらのせいで自己肯定感の強いと思っていた欧米諸国でも承認欲求お化け(承認欲求に取り憑かれただただ「イイネ」を追求する人の形を借りた生き物)が増加しているのかもしれない。)

 

話を戻します。

そもそも、日本人が他者と比較することで存在意義を見出してしまったり自己肯定感が低かったりするのはなぜかというと、歴史的背景があるような気がしてならないんですよね〜。まだぼんやりとしてますけど、そのヒントになりうるのが「単一民族国家」であることではなかろうか、ということ。

多民族国家であれば、肌の色目の色言語の違い等によってすぐに自分と他人を区別することができる。考えるよりも先に自分と他人を区別することができ、アイデンティティを構築するのが容易なのではなかろうか、と推測。

一方日本は単一民族国家であるため、周りを見渡しても同じような人ばかり。だから少し日本人離れした容姿であれば敬遠したり賛美したりして大袈裟に扱うことがある。日本語だけで生活ができるから、ただ生活するだけであれば他言語を必要とはしない。だから他言語を扱う人がいれば、それもまた過度に賞賛されることがある。(近代において必須スキルにはなってきたものの、未だに英語を扱えない、特に読み書きはできるけれども話せない日本人は多いと思う。)

つまり、じっくりと自己と他者を比較しなければ、自分自身が何者であるのかを認識できないのではなかろうか。長い年月の間、日本人はそうやって自分の存在価値やら自己肯定感を培ってきた。だからこそどうしても、日本人は幸せの感じ方も相対的になってしまうのではなかろうか、というのがわたしの結論です。

幸せの感じ方に限定せず、何かにつけて他者と比較してしまう、それが当たり前の行動になってしまっている。それが日本人なのではなかろうか。

だから日本人の自己肯定感は低いし、それを高めていくのはなかなか難しいことなのではなかろうか。

「あなたは生まれながらにして価値がある人間なんだよ、だから生きてていいんだよ」なーんてお決まりの台詞を言われても見渡せば自分と同じような人はたくさんいるし、実感できない。

少しずつ自分を認めていって、その積み重ねからどうにか絶対的な自信を持っていかねばならないですな。

 

でもその絶対的な自信というものも、「過剰」になりすぎるといくないからまた難しいのよね。日本は「控えめ」「謙虚」を好む国でもありますからね……